日本に趣味登山の概念さえまだ無かった明治30年代。小島烏水や岡野金次郎ら横浜に住む若き登山家のパイオニアたちと山好きな西洋人たちが旧居留地界隈で出会い、交流することで、日本の登山文化は大きく花開いていきました。
コース名
「近代登山が開花したまち横浜<馬車道~旧居留地>散策コース」
(神奈川県横浜市中区)
所要時間/歩行距離
約1時間(ゆっくりペース)/約3キロ
コース概要
日本の近代登山文化はどのように開花したのか?近代登山の先駆者として知られる小島烏水、岡野金次郎、ウォルター・ウェストンらの出会いと交流、日本初の山岳会結成に向けた第1回目の会合場所、明治38年に設立された日本山岳会の事務拠点…。
これら近代登山史の舞台を解説付きでたどるまち歩きコースです。
参考文献『孤高に生きた登山家 岡野金次郎評伝』(山と溪谷社)
近代登山”幕開けの地”をゆく
まち歩きスタート!
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- 【スタート】関内駅-開港場(関内)へ
- ① 馬車道-西洋文化の交易路
- ② 旧横浜正金銀行本店本館(現神奈川県立歴史博物館)👑日本山岳会創立者 小島烏水の勤務先
- ③ ニッセイ同和損害保険横浜ビルの壁面写真-明治末~大正初期の実寸大風景
- ④ 本町通り 👑登山家岡野金次郎の通勤路
- ⑤ 高野鷹蔵宅跡 👑日本山岳会事務所跡
- ⑥ 横浜郵船ビル(日本郵船歴史博物館跡)👑岡野金次郎が世界周遊した土佐丸の運航会社
- ⑦ 横浜税関 本関庁舎
- ⑧ 神奈川県庁 本庁舎
- ⑨ 旧開港記念横浜会館(現横浜市開港記念会館)
- ⑩ 旧三井物産横浜ビル(現KN日本大通ビル) 👑岡野庄次郎の元勤務先
- ⑪ 日本大通り-旧外国人居留地と日本人街の境界
- ⑫ 横浜港/大さん橋 👑土佐丸の出航地
- ⑬ 旧英国領事館(現横浜開港資料館)
- ⑭ 英一番館跡
- ⑮ 旧英国七番館(現戸田平和記念館)
- ⑯ スタンダード石油会社跡 👑広重ハッパーと岡野金次郎の勤務先
- ⑰ 山下公園/未来のバラ園
- ⑱ ホテルニューグランド本館
- ⑲ オリエンタルパレスホテル跡(ザ・ゲートホテル横浜 by HULIC) 👑山岳会設立に向けた第1回目の会合場所
- ⑳ 横浜中華街(旧南京町)
- 【ゴール】元町・中華街駅
【スタート】関内駅-開港場(関内)へ
JR関内駅(北口)から線路に沿って北西へ約130メートル、または地下鉄関内駅(9番出入口)を出るとすぐそこに、馬車道のレトロモダンな街並みが港に向かって続いています。

駅名の「関内」は、かつて馬車道の入り口に設けられていた関門(関内駅付近)から港側のエリア(関の内側)を意味します。
関門を越えると、そこは幕末に外国との条約締結により開かれた開港場で、いわば外国貿易の街でした。今回のコース馬車道から旧居留地の山下町(中華街含む)まではすべて、開港場だった関内に該当します。
馬車道エリア
① 馬車道-西洋文化の交易路

明治時代の馬車道は、港から横浜に上陸した外国人や馬車が行き交い、当時最先端の西洋文化がもたらされる活気あふれる交易路でした。
アイスクリームや日刊新聞、ガス灯や近代街路樹といった数々の「日本初」がここ馬車道で誕生たと言われています。

現在も通りを歩くと街路樹やガス灯(今も本物のガス灯を使用)が道の両側に連なって、在りし日の雰囲気を感じながら”街ブラ”(明治当時の流行り言葉)を堪能することができます。
ここは「山岳コミュニティの交流拠点」としても重要な役割を果たしていましたが、その詳細はこれから追々と触れていきます。
② 旧横浜正金銀行本店本館(現神奈川県立歴史博物館)👑日本山岳会創立者 小島烏水の勤務先

ドーム型の屋根が印象的な神奈川県立歴史博物館は、馬車道でひときわ目を引く豪壮な近代銀行建築です。1904(明治37)年に「横浜正金銀行本店本館」として建てられ、1967年(昭和42年)に博物館へと引き継がれました。
博物館の常設展は入館料300円で、神奈川県域の歴史を原始時代から現代までたっぷりと学べます。
👑【山岳関連スポット①】横浜正金銀行と小島烏水
この建物が近代横浜を象徴する歴史的建造物であるように、日本の近代登山における象徴的な存在が小島烏水です。
彼はこの建物の竣工当初からここ横浜正金銀行本店本館で働く行員の一人でした。1896(明治29)年の入行と同時期に、岡野金次郎と登山家デビューを果たしてます。
小島烏水が登山家として活躍した期間は、この横浜正金銀行本店で働いていた明治から大正初期の期間とほぼ一致しています。その後彼は1915(大正4)年に正金銀行サンフランシスコ支店に赴任することになりました。その頃から山岳界を先導する日本人登山者は、大学山岳部やその出身者を中心とした第二世代へと受け継がれていきました。
③ ニッセイ同和損害保険横浜ビルの壁面写真-明治末~大正初期の実寸大風景

博物館から2軒先に位置するニッセイ同和損害保険横浜ビルの壁面は、明治末から大正初期にこの地点から馬車道を撮影した超拡大古写真になっています。
このビルの地点から正金銀行側を撮影した、小島烏水らがこの界隈で過ごした時代の風景を実寸大に近い姿で見ることができます。
このビル前にみなとみらい線馬車道駅(5番出入口)があり、馬車道はここまでです。

本町通り
④ 本町通り 👑登山家岡野金次郎の通勤路
ここ馬車道の港側の起点で交差しているのが本町通りです。

地図上で馬車道駅出口5となっているのが先ほどの古写真のビルで、赤いピンがあるのが下の写真に写る旧富士銀行横浜支店(現東京藝術大学大学院キャンパス)です。

馬車道を経て本町通りのこの地点を毎朝、小島烏水の山の相棒・岡野金次郎が英字の本を片手に読みながら、県庁方面に向かって通り過ぎていきました。高野鷹蔵が次のように証言しています。
自分の家は小島君の勤めていた正金銀行のすぐそばで、当時の居留地や縣應への往還に当つている。岡野さんはその頃どこに住まつていたのか知らないが、毎朝通勤の定刻になると岡野君が短躯に胸をそらして颯爽と、私の家の前を通るのが、未だつい近年の如き思いがする。
最も忘れない事は、岡野さんは必ず英字の本を片手で持って、それを讀みながら歩いてる。今だつたら自動車にブッつけられるのだが、五十年も前で横濱でも馬車と人力車の時代であつたからであろうか。兎に角私の家の前は縣廳通いの役人や商館通いの人達が水の流れる如くに一定時刻に通う中に忘れられない印象である。當時岡野さんは米國のスタンダード石油會社に勤めていた。(日本山岳会の『会報』№172より)
岡野金次郎と小島烏水は共に西戸部(横浜市西区)に住み、毎朝ここ横浜港付近まで通勤していました。
ちなみに本町通りに住む高野鷹蔵も2人と同じ校区(当時)の神奈川県立第一中学校出身で、小島烏水の弟や、のちに登山家となる三田幸夫や伊藤秀五郎も同じ中学校を卒業しています。
ここに名前を挙げた全員に共通するのは、「岡野金次郎が歩いているのを見た」と目撃証言をしていることです。
⑤ 高野鷹蔵宅跡 👑日本山岳会事務所跡
本町四丁目交差点の横断歩道を渡ると、かつて横浜生糸検査所だった横浜第二合同庁舎(外観を復元)が立っています。

この十字路から本町通りを東(県庁側)に少し進むと、3軒目に「リアンレーヴ馬車道」という建物が見えてきます。

かつてここには、日本山岳会の創設者の一人である高野鷹蔵の家がありました(場所は古地図で照合)。
高野家は明治から大正期にかけて、生糸や羽二重の船積みを引き受ける回漕業を営む豪商で、荷主の商人を泊める宿屋も営んでいました。
本町四丁目交差点にかつて生糸検査所があったように、明治期の横浜港は生糸貿易が盛んで、高野家も多額納税者でした。
👑【山岳関連スポット②】高野鷹蔵宅と山岳コミュニティ
廻船業を営むこの家の跡継ぎ息子である高野鷹蔵は、東京の学生サークル「日本博物学同志会」に横浜で唯一所属し、蝶の採集や研究に夢中になっていました。二十歳になった1904(明治37)年、小島烏水の名で雑誌に発表された山岳紀行文を読んで、いったいどんな人が書いたのか日本博物学同志会の仲間内で話題になります。
そしてこの作家が横浜住まいであるという情報を頼りに高野が調べていくうちに、偶然にも家のすぐそばにある横浜正金銀行に勤める行員が小島烏水の正体だと突き止めることができました。仲間の武田久吉と一緒に会いに行って意気投合。共に日本初の山岳会設立に向けて動き出すことになります。
1905(明治38)年に日本初の山岳会(その後の日本山岳会)が結成されると、高野鷹蔵宅は山岳会横浜事務所となり、その後本部事務所として使用されるようになりました。
海岸通り
⑥ 横浜郵船ビル(日本郵船歴史博物館跡)👑岡野金次郎が世界周遊した土佐丸の運航会社
本町三丁目交差点から海岸側に進むと、正面に神殿のような柱が目を引く近代建築が見えてきます。海岸通りに面して立つ横浜郵船ビルです。

ここは明治期から日本郵船株式会社横浜支店(一時期は本社)でしたが、旧社屋は関東大震災で倒壊し、現在のビルは1936(昭和11)年に建てられています。
ファサードに「NIPPON YUSEN KAISHA」の文字があるように、日本郵船の読みはニッポンユウセン。建物の呼び方は「横浜郵船ビル」、もしくは一階の企業ミュージアムを指して「日本郵船歴史博物館」と呼ばれていました。
2021年に「海岸通り地区」の再開発計画が発表されて、このビルも2027年頃を目途に大改修されることに。それに伴い、博物館も2023年4月から休館しています。

👑【山岳関連スポット③】日本郵船と岡野金次郎
日本郵船は日本初の遠洋定期航路を開設し、1896(明治29)年に欧州航路第一船として横浜を出港したのが「土佐丸」でした。
世界を旅するのが夢だった岡野金次郎は、その夢と仕事を兼ねて1897(明治30)年に土佐丸に乗り込み、香港、ボンベイ、ポートサイドなど各地の寄港地を経由しながらヨーロッパへと世界を周遊しました。
船旅を終えると、まもなくして旧海岸通り(現山下公園通り)のスタンダード石油会社に就職します。英字の本を読みながら歩いて通勤していたのはその頃です。

⑦ 横浜税関 本関庁舎
海岸通りを進むと、横浜港の象徴的建造物の一つ横浜税関が見えてきます。

旧建物は関東大震災で倒壊し、現在の税関は横浜郵船ビルと同年代の1934(昭和9)年に建てられました。
建物全体を見るならば、道路向かい(県庁前)、もしくは港側から見るのがおすすめです。見る位置によって全く異なる外観を見せてくれます。

みなと大通り
⑧ 神奈川県庁 本庁舎
税関の斜め前に立ち、横浜港と向かい合うように大きな区画を占めているのが神奈川県庁です。

こちらも横浜税関と同じ1934年(昭和9年)に建てられました。歩くルートに沿ってみなと大通りから撮影していますが、反対側の日本大通りが正面です。
平日は「神奈川県庁本庁舎歴史展示室」(6階)と「屋上展望台」を無料見学できます。
⑨ 旧開港記念横浜会館(現横浜市開港記念会館)

県庁前交差点の向かいに立つ、横浜の象徴的な歴史的建造物の一つです。大正6年(1917年)に横浜の開港50周年を記念して建てられました。関東大震災での焼失後、1927年(昭和2年)に元の建物を復元するかたちで再建されました。
横浜税関本関庁舎の「クイーンの塔」、横浜税関本関庁舎の「クイーンの塔」と並んで、横浜市開港記念会館の「ジャックの塔」は「横浜三塔」の一つです。
⑩ 旧三井物産横浜ビル(現KN日本大通ビル) 👑岡野庄次郎の元勤務先
横浜地方裁判所交差点を曲がる正面に、ここだけ時が止まったようなモノクロ風のビルが見えてきます。

日本大通りに面して立つ旧三井物産横浜ビルは、1911(明治44)年に三井物産横浜支店のビルとして建てられました。日本初の全鉄筋コンクリート造の事務所ビルとして知られています。
👑岡野庄次郎と三井物産横浜支店
かつて三井物産横浜支店には岡野金次郎の父庄次郎が勤務していました。しかし1886(明治19)年の在勤中に、当時横浜港を中心に流行したコレラに感染して急死してしまいます。
長男の金次郎は当時12歳で、小学校を卒業すると一家の長として働きながら独学で英語を習得していきました。その英語という武器が、世界周遊の旅やスタンダード石油会社への就職、ウォルター・ウェストンの発見などに生かされていきます。
⑪ 日本大通り-旧外国人居留地と日本人街の境界

港に向かって日本大通りが続いています。ここは外国人街と日本人街の境界で、通りを挟んで右側(写真奥に旧英国領事館)が旧外国人居留地、左側(県庁側)が日本人街です。この通りは1870(明治3)年頃に完成した日本で初めての西洋式街路としても知られています。
正面は横浜港で、「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」に寄港している大型のクルーズ船が見えています。
横浜港
⑫ 横浜港/大さん橋 👑土佐丸の出航地
日本大通りのほぼ延長上に「大さん橋」が延びています。

大さん橋は1894(明治27)年、港の近代化に対応するための船の係留施設として竣工しました。
下の絵は1910(明治43)年の大さん橋です。橋のたもとに税関があったことから、昭和戦前期までは税関桟橋(絵葉書など観光客向け表記は「横浜桟橋」が多い)などと呼ばれていました。

👑【山岳関連スポット④】土佐丸と本場ヨーロッパの登山文化
1896(明治29)年、日本郵船の土佐丸(イギリスから購入した日本初の大型船)が、日本の運航会社による初の遠洋定期航路船として、ここ大さん橋からヨーロッパへと出港しました。
その翌年の1897(明治30)年に土佐丸に乗船した一人が当時23歳の岡野金次郎でした。彼は1891(明治24)年に日本人登山者として初めて丹沢山塊に登っており、小島烏水と趣味登山をしていましたが、冒険登山と呼べる山行は未経験でした。
彼は土佐丸での世界周遊の旅で、本場ヨーロッパの登山趣味(趣味として山に登る概念)を知ったといいます。本格的な登山を始めるのは、帰国から3年後のことです。まもなく近代登山の幕が開けようとしていました。
旧居留地エリア(山下町)
⑬ 旧英国領事館(現横浜開港資料館)
日本大通りを挟んで東側は、外国人居留地だったエリアです。

日本大通りと海岸通りの角地に立っているのは、1931(昭和6)年築の旧英国領事館です。ここで日米和親条約が締結されました。現在は横浜開港資料館で、この界隈の明治期の写真がたくさん展示されています。
⑭ 英一番館跡

横浜開港資料館の出口(裏側)のそばには、海岸通りに面して、貿易拠点のジャーディン・マセソン商会、通称「英一番館」の碑が立っています。ここから先は山下公園通り(元々は海岸通り)で、外国商社が連なる一等地でした。

⑮ 旧英国七番館(現戸田平和記念館)

1923(大正12)年の関東大震災で多くの建物が倒壊した中、倒壊を免れ現存しているのが旧バタフィールド&スワイヤ商会、通称「英国七番館」です。先ほどの「英一番館」が山下町一番地なのに対して、こちらは山下町七番地に位置しています。
震災の前年に建てられた赤レンガ造の外国商館建築で、現在は創価学会戸田平和記念館になっています。
⑯ スタンダード石油会社跡 👑広重ハッパーと岡野金次郎の勤務先

英国七番館の隣りの敷地、山下町八番地に登山家岡野金次郎が勤務するスタンダード石油会社がありました。現在は駐車場で、「ユリと横浜開港の歴史」の解説板と「ガス灯生い立ち」のモニュメントが立っています。
👑【山岳関連スポット⑤】山好き外国人との交流拠点
岡野金次郎は土佐丸での世界周遊の旅から帰国すると、翌1898(明治31)年にスタンダード石油会社に入社しました。支配人は米国人のジョン・スチュワート・ハッパーで、歌川広重の浮世絵を世界に広めた人物として世間一般には広重ハッパ―の名で知られています。
実はハッパーは山好きで、岡野の登山活動を陰で支えていました。毎回山に行くための長期休暇を与えたのもハッパーで、入社2年後には小島烏水と共に日本人登山者初の槍ヶ岳登頂を達成します。
槍ヶ岳から帰ってすぐのこと、ハッパーが洋書『日本アルプスの登山と探険』を借りているのを見た岡野は、そこに槍ヶ岳の写真が載っていることに気づきます。会社にあった日本在住の外国人名簿で著者のウォルター・ウェストンについて調べると、宣教師として来日中で、横浜の山手(旧居留地内)に住んでいることが分かりました。さっそく会いに行き、ウェストン、岡野金次郎、小島烏水3人の交流が始まります。
ジョン・スチュワート・ハッパー 1863年-1936年
広重ハッパーの異名を取る。スタンダード石油会社の支配人としてアメリカから来日し、以降約40年間日本で暮らす。浮世絵研究家として歌川広重の本を外国で出版し、広重の名と作品を世界に広めた。死後、東岳寺の広重の墓と隣り合わせにハッパーの墓が建てられた。
ウォルター・ウェストン 1861年-1940年
「日本近代登山の父」として、初期の日本人登山者たちに大きな影響を与えた人物。イギリス人宣教師として3度来日し、日本各地の山に登りながら英語で『日本アルプスの登山と探険』などを執筆した。1902年(明治35年)の2度目の来日で横浜の教会に赴任し、岡野金次郎や小島烏水らと出会う。彼らにリュックサックなどまだ日本にない登山道具を紹介し、日本での山岳会設立を強く勧めた。小島と岡野の通訳で、日本初の山岳講演会も行っている。日本山岳会の名誉会員。
⑰ 山下公園/未来のバラ園

スタンダード石油会社跡の道路向かいの風景です。かつては海岸だったのが山下公園になっています。
係留している船は、1930(昭和5)年竣工の日本郵船の外洋航路船を復元した氷川丸で、海洋博物館になっています。スタンダード石油会社跡のほぼ正面に係留していることに不思議な縁を感じます。
👑薔薇と岡野金次郎
スタンダード石油会社跡の正面周辺エリアは、山下公園内のバラ園になっています。バラは横浜市のシンボルで、横浜開港とともに上陸し、居留地で暮らす外国人の家の庭に植えられたことから周辺の日本人の間にも広まりました。
岡野金次郎も自宅の庭でバラを育てて香りを楽しんでいました。そればかりかバラの季節になると、背広の胸に白バラを差して毎朝出勤していたといいます。
⑱ ホテルニューグランド本館

スタンダード石油会社跡の隣は、1927(昭和2)年に建てられたホテルニューグランドです。関東大震災後の横浜を象徴するクラシックホテルで、映画俳優のチャーリー・チャップリン、陸軍元帥のダグラス・マッカーサーら、迎賓館として名だたる世界的著名人たちが滞在してきました。

ホテル前に案内標識があり、スタート地点の関内駅から1.7キロ、ここから南西方向に290メートル進むと中華街となっています。
⑲ オリエンタルパレスホテル跡(ザ・ゲートホテル横浜 by HULIC) 👑山岳会設立に向けた第1回目の会合場所

ホテルニューグランドの隣には、2025年2月末に開業予定の「ザ・ゲートホテル横浜 by HULIC」が立っています。「Anchor Grill」とあるのは、同時にオープンするグリル料理のレストランです。
ここ山下町11番地には、1903(明治36)年頃にドイツ人建築家リチャード・ゼールの設計により建設されたオリエンタルパレスホテルがありました(関東大震災で倒壊)。そしてこのホテルにもグリル料理を提供するレストランがありました。

ちなにみザ・ゲートホテルの竣工前は、ここは駐車場でした。
👑【山岳関連スポット⑥】山岳会設立に向けた初の会合開催地
1904(明治37)年3月、ウォルター・ウェストンは小島烏水、岡野金次郎、高野鷹蔵、武田久吉の4人をオリエンタルパレスホテルのグリルに招待して、日本にまだない山岳会の設立を勧めました。
武田久吉は、イギリスの外交官として来日し(横浜にも滞在)、日本での外国人登山の先駆者だったアーネスト・サトウの次男です。
高野と同じ日本博物学同志会の中心メンバーで、この中では唯一の東京在住者でした。小島烏水の山岳紀行文を読んで影響を受け、高野と2人で会いに行った人物でもあります。
この会合をきっかけに山岳会設立に向けた機運が高まり、翌1905(明治38)年に日本博物学同志会の支会として日本初の山岳会(その後日本山岳会に名称変更)が結成されました。
小島烏水、高野鷹蔵、武田久吉の3人は発起人として歴史に名を刻んでいますが、岡野金次郎は加入こそしたものの発起人には加わりませんでした。
横浜中華街(旧南京町)
⑳ 横浜中華街(旧南京町)
スタンダード石油会社跡とホテルニューグランドの間の道をまっすぐ進むと、中華街の東門が見えてきます。

1923(大正12)年9月1日の関東大震災の日は土曜日で、岡野金次郎はいつものように南京町(今の横浜中華街)で山の友人と昼食の約束をしていました。しかし直前に大地震が起こり、岡野は火に追われつつ海岸を進み、大さん橋の近くで船に乗って海上を漂流しました。食事の約束をしていた友人は亡くなりました。
震災でスタンダード石油会社は倒壊し岡野は一時期神戸へ、山岳コミュニティの拠点だった高野鷹蔵宅(1919(大正8)年まで日本山岳会の本会事務所だった)は焼失し、高野は東京へと移住します。
ウェストンは山岳会の設立直前にイギリスへ、日本の山岳界を先導した小島烏水は1915(大正4)年に横浜正金銀行サンフランシスコ支店への赴任が決まってアメリカへ。こうして皆、横浜を離れていきました。
横浜で開花した日本の登山文化はひとつの時代を終えて、大学山岳部やその出身者を中心とした次の世代の登山家たちへと引き継がれていきます。
【ゴール】元町・中華街駅
今回のまち歩きでは、中華街の港側の入り口東門の前をゴールにしています。すぐ近くにみなとみらい線元町・中華街駅の2番出入口があります。
ここから中華街を歩いたり、洋館が集まる山手(港の見える丘公園の辺り)まで足を延ばしてみるのもおすすめです。横浜港周辺は内部見学ができる観光施設(ミュージアムなど)がたくさんあるので、自由に組み合わせてみてください。

参考文献
このまち歩きコースは、山岳ノンフィクション『孤高に生きた登山家 岡野金次郎評伝』(山と溪谷社)を執筆するにあたって下敷きにしたコースです。
この記事の参考文献は『孤高に生きた登山家 岡野金次郎評伝』ですが、実は本が完成するより先に同じルートでのまち歩きコースが完成していました。
本の中では、横浜で岡野金次郎、小島烏水、ウォルター・ウェストンらが出会い、交流することで、日本の近代登山文化が開花していった様子を描いています。記事のトップ画像のイラストマップも本の中に収録しています。