【現代語訳で読む『東海道中膝栗毛』】高津宮に神詣で

原文と現代語訳で『東海道中膝栗毛』大阪編のストーリーをたどっていきます。
このページで紹介する<高津宮>は、弥次さんと喜多さんが一日かけて大阪名所をめぐる最初の立ち寄りスポットです。江戸時代後期の名所ガイドとしてもお楽しみいただけます。
全体のあらすじを読みたい方は、下の青ボタンからお進みください。

あらすじを読む

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原作を読む前に

『東海道中膝栗毛』は、江戸を出発した弥次さんと喜多さんが、東海道からお伊勢参りを経て京都と大阪を旅する全八編のシリーズ作品です。完結編にあたる八編では、大阪を旅します。

主人公
弥次
弥次
弥次郎兵衛(やじろべえ)
通称 弥次さん。旅の出発時点で、数え年の50歳(満49歳)。
妻を亡くした独り者で、能楽もの(なまけ遊んで暮らしている人)。旅先では次々と騒動を起こして失敗が尽きないが、口達者で洒落っ気があり、会話の中にたびたび教養をのぞかせる。
喜多
喜多
喜多八(きたはち)
通称 喜多さん。旅の出発時点で、数え年の30歳(満29歳)。
弥次さんの居候で、一緒に旅に出ることに。旅先では弥次さんの強烈なキャラクターと比較するとやや控えめだが、こちらも負けず劣らず失敗の尽きない人物で、似た者同士である。喧嘩っ早く口は悪いが、男前。

大阪編では、弥次さんと喜多さんの名所めぐりに街案内人の佐平次が同行します。

原作の構成

原作では場面ごとに、大きく3つの組み合わせでストーリーが展開していきます。

●場面転換(登場人物の動作や行動)を示す「ト書き」「名所解説」
●登場人物の「会話(台詞)」
●場面の幕を閉じる「狂歌」(滑稽を盛り込んだ五七五七七の短歌)

<表記のルール>
このページでは「原文」は引用形式、「会話」は吹き出し、「現代語訳」は青マーカーで記しています。

原文(ト書き、名所解説、狂歌)

人物名
人物名

登場人物の台詞 ※意味が通じにくい部分は(カッコ)で補足

現 代 語 訳 (青マーカー)     

純粋にストーリーを追いたい方は、現代語訳(青い箇所)と会話(吹き出し)の部分をお読みください。原作の全文を掲載し、最後に解説をしています。

それでは、「現代語訳で読む『東海道中膝栗毛』」をお楽しみください。

【現代語訳】高津宮に神詣で

ここまでのあらすじ
大阪に前日入りした弥次さんと喜多さんは、日本にっぽんばし筋西詰(日本橋四丁目から五丁目辺り)の宿屋<分銅河内屋>に宿泊します。翌朝、二人は宿屋で仲介してもらった街案内人の佐平次をともなって、大阪市中の名所を巡る旅へと出発します。

ト長町どをりを、北へ、ひのうへより、高津新地に出、まづ高津の御みやにまいる。

長町ながまち通り(=日本橋筋)を北へ、樋の上ひのうえから高津新地を経て、まずは高津宮に参上する。

日本橋筋を北へ
日本橋南詰を東へ(右折)
突き当りが高津宮
高津宮
本殿に続く石段

ここはむかし、仁徳天皇の、たかきやにのぼりてみればと、ゑいじ給ひし旧地にして、今にはんじやういふばかりなし。

ここは昔、仁徳天皇が<高き屋(根)に登りてみれば煙たつたみのかまどはにぎわいにけり>と歌を詠われた旧跡で、今も繁盛は言葉で表せないほどである。

仁徳天皇の歌碑
境内の蔵の横に仁徳天皇の歌碑が立っている

社内にとうふでんがくのちゃ屋、さんけいの人をよぶ

境内にある豆腐田楽の茶屋が、参詣の人を呼ぶ。

豆腐田楽の<br>茶屋
豆腐田楽の
茶屋

サアサアおはいりなおはいりな。これへこれへおやすみなおやすみなおやすみな

(今度は寄進興行の浄瑠璃小屋の木戸から)

寄進浄瑠璃の<br>木戸
寄進浄瑠璃の
木戸

今じゃァ今じゃァ。紙屋徳兵衛天満やおはん、かはらやばし白木屋の段、次は千本ざくらの天川屋、弁慶の腹切、出がたりじやァ出がたりじやァ

(今度は望遠鏡をのぞく商売の客引きが)

遠眼鏡の<br>言い立て
遠眼鏡の
言い立て

サア見なされ見なされ。大坂おさかの町大坂の町(大坂=大阪の旧字)、ありふまで見へわたる。近くはどとんぼり(道頓堀)の人くんじゅ(群衆)、あの中にぼんさまが何人いくたりある(何人いる)。お年寄にお若い衆、お顔のみっちゃ(あばた)が何ぼある(いくつある)。

絵馬殿(遠眼鏡屋跡地)
遠眼鏡(=望遠鏡)屋のあった場所

遠眼鏡とおめがね屋はさらに続けて)

めがね屋
めがね屋

望遠鏡をのぞけば)女中がたの器量ふきりやう(器量不器量)、ほっこり(蒸し芋)買ふててござるも、浜側(川岸)でしゝなさる(小便なさる)も、橋詰の非人みだれ(乞食)どもが、襦袢じゅばんしらみなんぼとったといふまで、手にとるやうに見ゆるが奇妙。

めがね屋
めがね屋

また風景を御らん(御覧)なら、住吉沖に淡路島、兵庫の岬、須磨あかし(明石)、大船の船頭が飯何ばいくた(飯を何杯食ったか)、何くたくた(何を食ったか)も、いっきに(すぐに)わかる。

めがね屋
めがね屋

まだまだふしぎは、この目がねをお耳にあてると、芝居役者の聲色こはいろ、つけひやうし木(附拍子木)のかたりかたり(語りがたり)、残らずきこへて、見たもどうぜん、お鼻をよすれば(寄せれば)、大庄だいしょ(道頓堀の川魚料理屋)のうなぎのにほひぷんぷんと、あがつたも同前。ただの(たったの)四文では見るがおとくじゃ。千里ひとめの遠眼鏡とをめがね、これじゃこれじゃ

弥次
弥次

めがねやさん、おと(音)にきいた新町(のくるわ)とやらも、近く見へるかね

めがね屋
めがね屋

さよじゃ、このお山のツイねきに見へるわいな

弥次
弥次

それじゃァ、ちかく見へるのじゃァねへ。とをく(遠く)見へるのだ

めがね屋
めがね屋

なぜもし

弥次
弥次

ハテ、この高津こうづと新町との間は、たった壱寸弐三分(一寸二三分=約三~四センチ)ほかねへもせぬ(ありもせぬ)ものを

めがね屋
めがね屋

ソリャおまい、おさか(大坂)の絵図で見てかいな(弥次さんの話は笑話集『醒睡笑せいすいしょう』が元ネタだと気づく)

弥次
弥次

さやうさやう(さようさよう)、ハハハハ。先お宮へまいろう。ハハア、いかさまいいおみや(いかにもいいお宮)だ

ト三人とも神前にぬかづきたてまつりて
  もろもろの 神にくらべ したまはば さこそたか津の宮のたうとさ

三人とも神前に深くお辞儀をして
「もろもろの 神に背くらべ したまはば さこそ高津宮たかつのみやの尊さ」
――(「高津」に「背の高い」をかけて)他の神々と背比べしたならば、高津宮は一段と尊い

本殿

(ここから弥次さんと喜多さんは、谷町筋の長屋街へと向かいます。)

挿絵と解説

『東海道中膝栗毛』大阪編(八編)で弥次さんと喜多さんが最初に向かう大阪名所が、うえまち台地の高台に位置する高津宮こうづぐう(別名 高津こうづ神社)です。

ここで最初に注目すべきポイントは、大阪で高津宮といえば、神社の「高津宮」と仁徳天皇の皇居だった「高津宮」とで、2つの高津宮が存在することです。字はまったく同じですが、神社のほうは「こうづぐう」、皇居のほうは「たかつのみや」と読みます。

両者の読みが異なることは『東海道中膝栗毛』が書かれた当時も200年後の現在も共通の認識で、当時と異なっているのが歴史的解釈です。

ここはむかし、仁徳天皇の、たかきやにのぼりてみればと、ゑいじ給ひし旧地にして、今にはんじやういふばかりなし。

作者の十返舎一九が書いているとおり、この神社は弥次喜多コンビが立ち寄った江戸時代当時、仁徳天皇の皇居「高津宮たかつのみや」の旧跡だとされていました。両者は時代を隔てて同じ場所に立地し、皇居か神社かで読みが異なるというわけです。
しかし今では仁徳天皇の皇居があった場所は難波宮跡が有力で、少なくともこの神社は仁徳天皇の皇居跡ではなかったことが分かっています。

十返舎一九は、同じ空間(と当時は思われていた)に2つの読みが存在することを巧みに利用し、作品のなかで「こうづぐう」と「たかつのみや」をうまく使い分けています。
原文を読んで、高津宮の3つの記述が存在していることに気づいたでしょうか。冒頭に「高津の御みや」、会話のなかではルビ付きの「高津こうづ」、最後の狂歌では「たか津の宮のたうとさ(尊さ)」と、最後に一転、ひらがなで皇居のほうの「たかつ」読みになっています。

これはお宮の尊さを仁徳天皇の皇居「たかつのみや」の旧跡とかけているからだと解釈できます。こういった言葉遊びを巧みに散りばめていく作風は、作者十返舎一九の持ち味のひとつになっています。

眺望の名所としての高津宮

弥次喜多コンビが立ち寄った高津宮は、江戸時代の大阪名所として『摂津名所図会』にも描かれています。

『摂津名所図会』高津宮
『摂津名所図会』(1796刊) 大阪市立中央図書館蔵

右ページの石段を登ると、左ページ中央の本殿に至ります。その手前にある清水寺のようにせり出した建物の辺りに、『東海道中膝栗毛』にも登場する「遠眼鏡屋」(遠眼鏡=望遠鏡)はありました。

高津宮「遠眼鏡屋」跡地

現在地と照らし合わせると、写真左上の建物が遠眼鏡屋跡地(推定地)で、今は絵馬殿になっています。

「遠眼鏡(望遠鏡)をのぞけば、女中方の器量不器量も、蒸し芋(なにわ方言で「ほっこり」)を買って食べているのも、川岸で小便なさるのも、橋詰にいる乞食が服のしらみをいくつ取ったということまで、手に取るように見えるが奇妙…」。

さらには眼鏡を耳に当てれば、遠くの声も聞こえて、眼鏡に鼻を寄せれば遠くの匂いもかげると、遠眼鏡屋の呼びかけはどんどんヒートアップしていきます。

言っていることは滅茶滅茶ですが、そんななかで同じように嘘くさく聞こえてしまう次の売り文句「風景を御覧なら、住吉沖に淡路島、兵庫の岬、須磨や明石まで見渡せる」というのは決して大げさではなかったようです。

今でこそその眺望は失われてしまいましたが、グーグルアースの3D機能で高津宮に立ち寄ると、遠くの山々まで見渡せて、あまりの眺望のよさに驚かされます。

かつての高津宮は、仁徳天皇が<高き屋(根)に登りてみれば煙たつ、民のかまどはにぎわいにけり>の有名な歌を詠んだと思われていたほどで、眺望の名所として知られていました。

江戸時代の人々が仁徳天皇の歌を連想したのもそのはず、実は2つの高津宮は決して無関係ではありません。

高津宮(神社のほう)は元々、貞観8(866)年に難波宮跡(仁徳天皇の皇居「高津宮」跡推定地)の近くで創建されており、主祭神は仁徳天皇です。大坂城築城にともなう天正11(1583)年の移転事業で現在地に移転することになったのも、同じ上町台地の高台の上にあり、旧地とよく似た景色だったからと言われています。

そのため神社と仁徳天皇の皇居跡が別々の場所だと分かった今も、境内には仁徳天皇の歌碑が立っています。

倉の右端に仁徳天皇の歌碑が立つ

そして現在、高津宮からどのような景色が楽しめるかというと…。遠眼鏡屋の跡地に立って見える景色は、目の前のビルと駐車場のみとなっています。

本の挿絵

『東海道中膝栗毛』には高津宮の絵図が挿入されています。絵を描いたのは本の作者十返舎一九で、それより10年ほど前に刊行されていた『摂津名所図会』と構図がよく似ています。

『東海道中膝栗毛』高津宮
『東海道中膝栗毛』より
『摂津名所図会』より

最後に、高津宮を実際に訪ねてみたい方へ。高津宮の最寄り駅は地下鉄谷町九丁目駅と近鉄上本町駅で、谷町九丁目駅2番出口から徒歩5分、上本町駅から徒歩10分の距離にあります。大阪最大の寺町のなかにあり、周辺の寺社仏閣と一緒に巡るのがおすすめです。

本の基本情報

『道中膝栗毛八編』(1809刊) 大阪市立中央図書館蔵
<原作>
書 名
 『東海道中膝栗毛』(当初のタイトルは『膝栗毛』『道中膝栗毛』など)
該当箇所 八編(八編=大阪編、当初のタイトルは『膝栗毛 八編』)
著 者 十返舎一九
初版刊行年 1809(文化6)年
版 元 村田屋治郎兵衛(栄邑えいゆう堂)
ジャンル 滑稽本(笑いを目的にした大衆小説)
内 容 弥次さんと喜多さんがお伊勢参りを経て京都・大阪を旅する全八編のシリーズ作品。大阪の旅は、最終八編の完結編にあたる。

参考文献
●十返舎一九 作、麻生磯次 校注『東海道中膝栗毛(下)』1973年(岩波文庫 黄227-2)
●十返舎一九 作、平野日出雄 訳『東海道中膝栗毛【現代訳】第三部 京都~大坂』1995年(十返舎一九の会制作、静岡出版発行)

●ガイドマップ「大阪市中央区わがまちガイドナビvol.1 食べて、参って、くつろいで~黒門市場、高津宮、空堀の由来とまちづくり~」2020年(大阪市中央区役所発行)

関連ページ

●【現代語訳・解説】十返舎一九『東海道中膝栗毛』リンク一覧

●あらすじで読む『東海道中膝栗毛』大阪編(作品完結まで)

●【解説】『東海道中膝栗毛』とは? 本の要点総まとめ

●『東海道中膝栗毛』に関する投稿一覧

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