『東海道中膝栗毛』とは? 旅のルートから作者十返舎一九まで本の要点総まとめ

江戸時代後期に出版された大衆小説『東海道中ひざくり』は、弥次さん喜多さんの「弥次喜多コンビ」が江戸から東海道を巡って伊勢神宮に参拝し、さらに京都と大阪を巡る全八編・十七冊にのぼるシリーズ作品です。

膝栗毛とは徒歩の旅を意味しており、弥次さん喜多さんの滑稽こっけいで自由きままな珍道中が人気を呼んで、江戸時代の大ベストセラーになりました。1802(享和2)年の初編刊行から年月をかけてこの作品は、笑いを目的とした滑稽本の象徴として日本文学の一時代を築いていきます。

今なお国民的な知名度を誇る日本の古典文学のひとつ『東海道中膝栗毛』とは、どのような作品なのか? 旅のルートから主人公の弥次さん喜多さん、作者十返舎一九の人物像まで、本の中身をひとつひとつ紐解きながら解説します。

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①弥次さん喜多さんとはどんな人物?

『東海道中膝栗毛』の主人公弥次さんと喜多さんは、二人合わせて「弥次喜多(やじきた)」の名称で古くから親しまれてきました。本のストーリーが弥次喜多コンビの珍道中であることから、「弥次喜多道中」の名称も広く定着しています。

そんな旅するコンビの象徴・弥次さんと喜多さんとは、どのような人物なのか? 出版当初のプロフィールとその後新たに加わったプロフィールに分けて、弥次喜多像の変遷を時系列で見ていきます。

主人公 弥次さん喜多さんのプロフィール

弥次
弥次
弥次郎兵衛(やじろべえ)
通称 弥次さん。本のなかでは「弥次郎」と略されることもある。
旅の出発時点で、数え年の50歳(満49歳)。
妻を亡くした独り者で、能楽もの(なまけ遊んで暮らしている人)。神田の八丁堀あたりにある借家を明け渡して旅に出ることを決意する。旅先では次々と騒動を起こして失敗が尽きないが、口達者で洒落っ気があり、会話の中にたびたび教養をのぞかせる。つねに前向きで、自由きままに生きている。
喜多
喜多

喜多八(きたはち)

通称 喜多さん。本のなかでは「北八」と表記されることもある。
旅の出発時点で、数え年の30歳(満29歳)。
弥次さんの居候で、一緒に旅に出ることに。弥次さんの強烈なキャラクターと比較するとやや控えめだが、こちらも負けず劣らず失敗の尽きない人物で、似た者同士である。喧嘩っ早く口は悪いが、男前。弥次さんと息の合ったやりとりを見せていく。

ここに記したプロフィールは、『東海道中膝栗毛』を刊行当初からリアルタイムで読んでいた江戸時代の読者の情報量に合わせています。二人は道中でふざけた会話を交わし合い、時々弥次さんが口ずさむ、場面ごとの狂歌(滑稽を盛り込んだ五七五七七の短歌)が良い味わいを出しています。

弥次さんと喜多さんが旅を続けるうちに(現実には本が刊行されるごとに)二人の名は広く知れ渡り、彼らの出所しゅっしょを尋ねる愛読者が出てきました。そこで作者の十返舎一九は『東海道中膝栗毛』全八編の旅を書き終えたあとに、新たに『東海道中膝栗毛 発端』を刊行し、そのなかで二人が旅に出るまでの背景や人物設定を初めて事細かに明かしています。

旅のあとに明かされた二人のプロフィール

『東海道中膝栗毛 発端』挿絵
『東海道中膝栗毛. 発端』国立国会図書館デジタルコレクションより

上の図は、浮世絵師の喜多川式麿が描いた弥次郎兵衛(右)と喜多八(左)で、『東海道中膝栗毛 発端』の冒頭を飾っています。弥次喜多コンビを描いたものとして、最も広く使用されているイラストです。

この『東海道中膝栗毛 発端』で、十返舎一九は読者の声に答えるかたちで、二人が江戸を旅立つ前の「前冊」の扱いで、読者の知らなかった弥次喜多エピソードを次のように語りだします。

或人問あるひととう、弥次郎兵衛、喜多八は、もと何者ぞや。答曰こたえていわく何でもなし(=何者でもない)、弥治(=弥次)ただ親仁おやじなり、喜多八これも駿州江尻すんしゅうえじりさん(=現静岡市清水区江尻出身)、尻喰観音しりくらいかんのんの地尻にて、生れたる因縁によりてか、旅役者、花水多羅四郎はなみずたらしろうが弟子として、串童かげま(=陰間かげま、男娼のこと)となる。されど尻癖(=浮気癖)わるく、其所に尻すはらず(=落ち着かず)、尻の仕廻しまいは尻に帆をかけて、弥治にしたが出奔しゅっぴんし(=逃げ出して行方をくらまし)、供に戯気はたけ(=ふざけ)を尽す而己のみ(=ばかり)。

いわく、二人は何者でもなく、弥次郎兵衛は「ただのおやじ」である。喜多八は弥次郎兵衛と同じ駿河するが国(静岡県清水)の生まれで、旅役者・鼻水多羅四郎(鼻水垂ら四郎!?)の弟子として、男娼になる。されど浮気癖があって一か所に落ち着かず、しまいには弥次郎兵衛にしたがって行方をくらまし、共にふざけてばかりいる――。

「ただのおやじ」の弥次さんと「男娼」の喜多さんが、一緒に駿河国から江戸へと行方をくらまして、しまいに旅に出るという、これまで二人の旅を見届けてきた読者びっくりの衝撃的な設定になっています。

これが明かされたのは初編が刊行されてから十二年後、全八編の刊行を終えてから五年後のことでした。今では『東海道中膝栗毛 発端』を初編の前に持ってきて、そこから旅が始まる順番へと新たに編集が加えられていることもありますが、「発端」で加わった新設定と本編での2人の人物像には乖離する点もあり、これをどう解釈するかは議論の分かれるところです。

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②『東海道中膝栗毛』とはどんな本?

東海道中膝栗毛
『道中膝栗毛 8編続12編 [1]』国立国会図書館デジタルコレクションより

『東海道中膝栗毛』の初編が刊行されたのは、江戸時代後期にあたる1802(享和2)年のことでした。最初のタイトルは『浮世道中膝栗毛』で、再版や改版を経て次第に『東海道中膝栗毛』の共通タイトルへと収れんされていきました。

上の図は、再版後の『東海道中膝栗毛初編』の見返しと序文(書き出し部分)です。「膝栗毛」のメインタイトルの上に小さく東海道中の文字が加わっているのが分かります。

初編で明かされた旅の目的

『浮世道中膝栗毛』(のちの『東海道中膝栗毛』初編)では、二人の友だち「独住ひとりずみの弥次郎兵」と「食客いそうろうの北八」が誘い合わせて、長旅に出る場面から始まります。

旅の動機は、国々の名山勝地を巡って、やかん頭の老人になってからの茶呑み話を蓄えること。思い描いく旅のルートは、花のお江戸を出発し、お伊勢参りをしてから大和の国を巡って、花の都(京都)と梅の浪速なにわ(大阪)を見物するという、最終的に刊行される全八編の旅と同様のものでした。

ここには東海道の文字は出てきませんが、江戸から伊勢神宮へ向かう旅のルートが東海道になります。

よく、当初はお伊勢参りを目的とした「東海道の旅」だったのが、予想外に売れたので、旅を延長して京都・大阪までシリーズ化したという説明を見かけます。しかしそれは当初売れ行きが読めずシリーズ化の判断ができなかった出版社サイドの裏事情であって、本のなかの設定では初編の冒頭から二人は大阪までの旅を想定し、大阪まで行く気満々で江戸を旅立っています。

全八編・十七冊の旅の行程

『東海道中膝栗毛』は、1802(享和2)年の初編にはじまり、年一回のペースで新たな編が刊行されて、1809(文化6)年に最終の八編が刊行されました。全八編・十七冊のシリーズものですが、興味のある旅のエリアを選んで、単巻でも十分に楽しめます。

各編の旅先とルートは次のとおりです。

<東海道編 初編~四編>
初編から四編は、江戸を起点に東海道五十三次を四十二番目の宿場町桑名まで順に進む、いわゆる「東海道編」です。東京・神奈川エリアを進む初編のみ単巻で、静岡に至る二編からは上下巻の二冊ずつの刊行になり、愛知から三重北部に至る四編までで計七巻が刊行されました。

初編 二人の住む江戸の神田八丁堀を出発し、高輪を経て品川宿、川崎宿、神奈川宿…(以下略)と東海道五十三次を十番目の箱根宿まで進む全一巻。今でいう「東京・神奈川編」。1802(享和2)年初版刊行。
二編 五十三次十番目の箱根宿から三島宿、沼津宿…(以下略)と東海道を進んで二十一番目の岡部宿に至る「乾坤」の全二巻(乾坤=上下巻)。今でいう「静岡編」。1803(享和3)年初版刊行。
三編 五十三次二十一番目の岡部宿から藤枝宿、島田宿…(以下略)と東海道を進み、舞坂宿から船で三十一番目の新居宿に至る全二巻(上下巻)。今でいう「静岡編」。1804(文化元)年初版刊行。
四編 五十三次三十一番目の新居宿から白須賀宿、二川宿…(以下略)と東海道を進み、宮宿から船で四十二番目の桑名宿に至る全二巻(上下巻)。今でいう「静岡西部~愛知~三重北部編」。1805(文化2)年初版刊行。

<伊勢参宮編 五編>
五編は「上・下・追加」の三冊に分かれています。「五編 上」の四日市宿までが東海道中で、「五編 下」から伊勢街道に進み、「五編 追加」でお伊勢参りをして、東海道の旅はここで一区切りとなります。

五編 桑名宿から東海道四十三番目の四日市宿まで進んだ先は、追分から伊勢街道へ、そしてついに旅の目的地伊勢神宮に参拝する全三巻(上・下・追加)。いわゆる「伊勢参宮街道編」と「お伊勢参り編」。1806(文化3)年初版刊行。

ここから二人は、四日市に戻って東海道を京都の三条大橋まで進むのではなく、初編に書かれていたとおり、伊勢から大和路に入り、奈良街道を経て山城の宇治へ、そこから京都の伏見へと至ります。その部分はルートの記述のみで、旅の描写は省かれています。

<京都・大阪編 六編~八編>
六編から八編は街道筋とは関係なく、江戸時代の三大都市「江戸・京都・大坂」のうち京都と大阪の観光名所を縦横無尽に巡っていきます。京都編は六編七編の全四冊、大阪編は八編上中下の全三冊で、これだけで東海道編と同じくらいの分量になっています。

六編 京都の伏見から船で大阪に向かおうとするも、船を乗り間違えて先に京都見物をすることに。方広寺、三十三間堂、清水などの観光地を巡って、五条新地の遊郭で夜を過ごすまでの全二巻(上下巻)。京都見物編。1807(文化4)年初版刊行。
七編 四条通りに出て祇園で芝居見物し、八坂神社、北野天満宮などを巡りつつ伏見の船着き場に至る全二巻(上下巻)。京都見物編。1808(文化5)年初版刊行。
八編 京都伏見から船に乗って大阪に上陸し、翌日から日本橋の宿を拠点に高津神社、天満橋、大阪天満宮、心斎橋、道頓堀、新町遊郭などを巡る大阪見物市中編と、生玉神社や天王寺から住吉詣でに至る大阪南部編の全三巻(上中下巻)。1809(文化6)年初版刊行。

弥次さん喜多さんは架空の人物ですが、作者の十返舎一九は取材旅行をしながら、この作品を執筆しています。道中に登場する場所や店などはいずれも実在していました。よってストーリーを追いながら、当時の文化や旅の実情、各地の名所や物産などを知ることができるのも『東海道中膝栗毛』の醍醐味です。

『浮世道中膝栗毛滑稽双六』
『浮世道中膝栗毛滑稽双六』国立国会図書館デジタルコレクションより

<画像解説>冒頭に載せたこの画像は、安政2(1855)年に出版された『浮世道中膝栗毛滑稽双六すごろく』です。原作ストーリーのとおり右下の神田八丁堀から出発し、外側かららせん状に進んで、中央の京都がゴールになっています。八編から五十年後の刊行物ですが、まだ『浮世道中膝栗毛』のタイトルも健在なことが分かります。

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③作者の十返舎一九とはどんな人物?

『東海道中膝栗毛』の作者は十返舎一九です。「じっぺんしゃいっく」と読みます。一風変わったペンネームですが、一九は幼名の市九から、十返舎は香道の「十返しの香(黄熱香)」が由来とされています。

ここからは十返舎一九の人物像に迫ります。その際の注意点が年齢表記です。彼の経歴はたいてい「満年齢」で書かれていますが、ここでは現在の数え方に合わせて「数え年」にしています。

例えば一九は満67歳で亡くなっていますが、数えでは66歳になります。ただし誕生日は1765(明和2)年生まれ以上の正確な月日は定かではないので、一般に言われている年齢には少し誤差があるかもしれません。

十返舎一九のプロフィール

十返舎一九
十返舎一九

十返舎一九 1765(明和2)年~1831(天保2)年

本名は重田貞一。幼名は市九。弥次さん喜多さんと同じ駿河国(静岡)出身で、10代で武家奉公のため江戸に出る。18歳で大阪に出て、やがて浄瑠璃作家として活躍し始める。29歳で再び江戸に出て作家として本を乱作。37歳で『東海道中膝栗毛』初版を出版し、人気作家への道を駆け上がっていく。

私生活では3回結婚し、2回離婚。66歳で逝去。

<『東海道中膝栗毛』出版までの人物年表>
1765(明和2)年 駿河国府中(現静岡市葵区)の下級武士の家に生まれる。
1781年~1789年頃(天明年間) 10代から駿府町奉行の職に就き、町奉行の小田切土佐守に仕えて一時期江戸の町奉行所に赴任。
1783(天明3)年 18歳で町奉行の小田切土佐守に仕えて大阪の町奉行所に赴任するが、ほどなくして浪人する。
1783(天明3)年以降 大阪で義太夫語りの家に身を寄せて、浄瑠璃作者になる。その後、大阪の材木商の家に婿入りするが離婚。浄瑠璃の脚本家から浄瑠璃本の作家へと出版の道を歩み出す。
1794(寛政6)年 29歳で再び江戸へ。大手版元の蔦屋重三郎に身を寄せて挿絵や本制作の手伝いをしながら、やがて作家として黄表紙本、洒落本、読本など大衆本を多作する。
1796(寛政8)年頃 町人の家に婿入りする(2度目の結婚)。
1801(享和元)年 『東海道中膝栗毛』出版の前年で36歳。おそらく取材旅行や執筆開始の時期だが、本の制作とどちらが先か、離縁されて2度目の離婚をする。
1802(享和2)年 書店仲間の村田屋治郎兵衛から『浮世道中膝栗毛』(のちの『東海道中膝栗毛初編』)を出版する。37歳。
1804(文化元)年 膝栗毛3編目に入り本の人気が高まるさなか、3度目の結婚をし、一女が生まれる。

ここまででかなり波乱万丈な人生です。年表を見ると、最初の離婚と二度目の離婚のあとに、作家への大きな飛躍が見られます。

まず大阪で材木商の婿として生涯を終えていたらその後の活躍はないですし、江戸で再び結婚し二度目の離婚をするのは『東海道中膝栗毛』誕生の前年のことでした。本が売れ出し絶好調のタイミングで三度目の結婚し、子どもが生まれています。

『東海道中膝栗毛』大ヒットの裏側

十返舎一九は、写楽の浮世絵出版などで知られる大手版元の蔦屋つたや重三郎で働き、これまでに黄表紙本、洒落本、読本といったいわゆる大衆本を数多く手掛けてきました。

しかしどれも売れ行きがかんばしくなかったため、新たに執筆した『浮世道中膝栗毛』(のちに『東海道中膝栗毛 初編』に改題)の出版を蔦屋重三郎に断られ、書店仲間の村田屋治郎兵衛(別名栄邑堂えいゆうどう)が売れるか危ぶみながらも出版を引き受けました。

どうにか出版にこぎつけたとはいえ、一九が自ら挿絵を描き、版下の清書もするという条件付きで制作がスタートし、二編目ですでにシリーズが終わりそうな気配を見せています。というのも二編の初版タイトルは、完結編を意味する『道中膝栗毛 後編』でした。

しかしそこからの勢いは誰もが知るところで、三編からようやく東海道中の文字も登場して、のちに『東海道中膝栗毛』となるこのシリーズは人気とともに巻数を重ねていきました。

完結編となる八編の段階では、すでに作者と版元の関係性は完全に逆転しています。本の冒頭で作者の十返舎一九がこれを最終に筆を置くと宣言すれば、その次のページで版元の栄邑堂が「附言」をわざわざ挿入して、続編の希望を付け加えるという劇場型の掛け合いを見ることができます。

やりとりが面白いので、その部分を紹介します。

道中膝栗毛八編序
(略)予が膝栗毛ひざくりげも、此八編にいたっあしあらひ、引込思案ひっこみじあんの筆をおくこと、はな半開はんかいさけ微酔びすいかこつけたれど、じつの所はにげ口上、知恵袋ちえぶくろ揚底あげぞこなれば、はたき仕舞しまひし栗毛の趣向しゅこうよんどころなく、おつもりの大阪おおさかづき長町泊ながまちどまりから滑稽こっけいのはじまりはじまり
十返舎一九誌

十返舎一九
十返舎一九

予の膝栗毛もこの八編に至って足を洗い、筆を置く。花の半開、酒の微酔にかこつけたけれど、実のところは逃げの口上である。知恵袋の底が見え透いたのでやむおえず、大阪の旅を酒宴の最終の地とすることにする。それでは大阪長町(大阪編の宿泊拠点、現日本橋)から滑稽の始まり始まり~ by十返舎一九

ページをめくると…

附言
膝栗毛初編ひざくりげしょへんよりさいはゐにおこなわれて、今年ことしへんにいたり、ようや満尾まんびおはんぬ。近ごろ此書このしょるいせし版本是彼と出はべれば、その流行りゅうこうをはづさず、むかふむまには初編再版さいはんのもよほしあれば、それに発端ほったんさつをまして二かんとなし、そのあとへひきつづ木曽路きそじ記行きこうをもとむれども作者固辞こじしてうけがはず、こひねがはくは諸君子しょくんし催促さいそくをまちてものせんとの事なれば、猶おって御披露ひろうにおよぶものならし
書肆 栄邑堂志

栄邑堂
栄邑堂

膝栗毛は初編から幸先よく、今年八編に至ってようやく完結となります。近頃はこの本に似た出版物もあれこれと出ている有様です。その流行に乗って来年には初編再版の予定なので、それに「発端編」を加えて二巻とし、その後に引き続き木曽路紀行の続編も出したいと作者に求めました。しかし作者が辞退して承諾してくれません。こい願わくは読者に催促してもらって、お披露目できるように善処します。 by栄邑堂

結局、全八編が完結するとさらに人気が高まり爆発的に売れたので、栄邑堂が附言に書いているとおりに翌1810(文化7)年から息をつく暇もなく『続膝栗毛』シリーズがはじまりました。四国の金比羅参詣から旅が始まる『続膝栗毛』は、1810(文化7)年から1822(文政5)年にかけて、『東海道中膝栗毛』より長い全十二編・二十五巻にのぼります。弥次喜多コンビは予想外の長旅を終えて、ようやく江戸に戻ってきました。

一九は37歳からの21年間を『東海道中膝栗毛』と『続膝栗毛』全二十編(発端を加えると二十一編)の執筆に費やすことになりました。なんとその期間も他の本を並行して出し続け、精力的に執筆を続けていきます。

晩年は本人が書いたものか疑わしい作品も混じっていたようですが、戯作者のトップランナーとして、その波乱万丈な生涯をまっとうしました。一九の肖像画(浮世絵師の歌川国貞画)はだいぶ年をとってから描かれています。

十返舎一九の肖像画(歌川国貞画)
『肖像. 2之巻』国立国会図書館デジタルコレクションより

一九は最期まで話題を提供し続けた生粋のエンターテイナーで、死にぎわに遺した辞世の句も広く知られています。

此世をば どりゃおいとまに せん香とともに 灰左様さようなら

この世をさてとおいとまします。線香とともに、灰(ハイ)さようなら。

この文才とユーモアが交じり合った世界観が十返舎一九の作品の魅力であり、その真骨頂が発揮されているのが彼の代表作『東海道中膝栗毛』というわけです。一九は天保2(1831)年8月7日、66歳(満67歳)で生涯を閉じました。浅草の東陽院にお墓があります。

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本のまとめ

『東海道中膝栗毛』
内訳 旅編の全八編・十七冊と発端の一編
作者 十返舎一九
版元 村田屋治郎兵衛(栄邑堂) ※五編から他三つの版元が加わる
初版刊行年 1802(享和2)年~1809(文化6)年
ジャンル 滑稽本(笑いを目的にした大衆小説)

参考文献

●十返舎一九 作、麻生磯次 校注『東海道中膝栗毛(上)』初版1973年(岩波文庫 黄227-1)
●十返舎一九 作、麻生磯次 校注『東海道中膝栗毛(下)』初版1973年(岩波文庫 黄227-2)
●十返舎一九 作、平野日出雄 訳『東海道中膝栗毛【現代訳】第一部 品川~新居』1994年(十返舎一九の会制作、静岡出版発行)
●十返舎一九 作、平野日出雄 訳『東海道中膝栗毛【現代訳】第三部 京都~大坂』1995年(十返舎一九の会制作、静岡出版発行)

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