十返舎一九著『東海道中膝栗毛』のあらすじを現代語訳でたどる「原作ダイジェスト」をお届けします。
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≫初編①(旅の始まり)
このページで紹介する<平塚宿~小田原宿編>は、弥次さんと喜多さんが道行く先々で歌を詠んだり謎かけを楽しむ”教養回”です。平塚宿から大磯宿、さらには宿泊地の小田原宿へと東海道(いずれも現神奈川県)を進んでいきます。
主人公

通称 弥次さん。旅の出発時点で、数え年の50歳(満49歳)。

通称 喜多さん。旅の出発時点で、数え年の30歳(満29歳)。
駕籠に乗って街道を移動

藤沢宿で駕籠に乗り、先棒と後棒の駕籠かきに担がれた弥次さんは、駕籠の中から前後の2人に話し掛けます。

コウ貴様たちゃァ藤沢か。アノ宿も大分きれいになったの。問屋(=宿役人)の太郎左衛門どのは達者かの

よく旦那さまは知ってござる。随分達者でいられます

孫七どのは、まだ勤めているかの

アイサァ、旦那はなんでも明るいもんだ
するとここまで黙って話を聞いていた後棒があることに気づいて口をはさみます。

べらぼうめ。知っていやしゃるはずだ。駕の内で道中記(=旅行案内記)を見ていさしゃるわ。ハハハハハ
道中記の知識をもとに物知り顔で会話を楽しむ弥次さんでした。
馬入の渡しから平塚宿へ

馬入の渡しがあった
こうして早くも<馬入の渡し(=現馬入橋辺り、東海道七番目の宿場町平塚宿の入り口)>に到着したので、川の手前で弥次さんと喜多さんは駕籠かきと別れます。
喜多さんが近くの人に「ここは何という川か」と尋ねると、相手はただ渡し場と答えました。
それを聞いた弥次さんが即興で一首

川の名を 問えばわたしと ばかりにて 入が馬入の 人のあいさつ
※この川の名である「馬入」と仏語の「入我我入」(みんな同じで区別がつかない)を掛けている。
この川は<甲斐の猿橋(=山梨県の桂川に架かる橋)>から流れ落ちています(※原作を補足すると、相模川の上流が桂川、その下流付近がここ馬入川である)。そしてその昔、源義経の首がここに飛んできたのを納め祭ったのが<白はたの宮(=白旗神社)>で、そのお宮は川向かいをしばらく進むんだ白旗村にあるそうです。
この話を聞いた弥次さんが再び一首

首ばかり とんだはなし(=首が飛んだ話、意外性に富んだ話)の 残りけり ほんの(=本当の)ことかは しらはたの宮(=知らない、しらはたを掛けている)
川の名は答えずに伝説を語る地元民と、それを「本当のことかは知らはたの宮」と巧妙に返す弥次さんでした。
ここまでは原作通りの内容を記しています。
しかし源義経の首が飛んできた(正確には流れついた)伝説の地も、それを祀った白旗神社も、どちらも藤沢宿の街道付近にあり、この話は馬入とも平塚とも無関係です。
馬入の地名は源頼朝の乗った馬がこの辺りで暴れて川に入り込んだ(この落馬が原因で頼朝は翌年死亡したとも言われる)ことに由来するため、原作の内容はこの出来事と混同している可能性があります。
大磯の虎が石で歌の詠み合い

虎が石が置かれている
平塚宿を通過して大磯宿(東海道八番目の宿場町)までやって来たところで、2人は延台寺に立ち寄ります。
この寺の<虎が石>は、曽我兄弟の仇討ちで知られる曽我十郎の愛人で遊女の虎御前が、十郎の死を悲しんで石になったものと伝えられています。
その石を見た喜多さんが一首

この里の 虎は藪にも 剛の者 おもしの石と なりし貞節
(意訳)大磯の虎はつまらない遊女の分身でありながら、立派な女で、十郎の死後尼となって貞節を尽くした。
※ことわざの「藪に剛の者」(つまらない者の中にも立派な人物がいる)と香の物(漬物)とおもしの石を掛けている。歌の内容は十郎の死後尼になったという言い伝えにもとづいている。
それを受けて弥次さんも一首

去りながら(=だけれども) 石になるとは 無分別(=考えが足りない) ひとつ蓮の 上にや乗られぬ
(意訳)しかし石になるとは考えが足りない。なぜなら石は重いから、死後十郎と一緒に一つの蓮の上に乗れないから。
言い伝えに忠実な喜多さんと、それを皮肉らずにはいられない弥次さんでした。
鴨立沢のお堂に参拝

こうして心から楽しみながら<大磯のまち>を通過して、<鴫立沢(=大磯宿の西端に位置する渓流、西行が歌を詠んだ名所として知られる)>にやって来ました。
ここには鴫立庵があり、中のお堂には文覚上人が鉈でつくった<西行の像(=西行法師の等身大坐像)>が安座しています。2人は木像に向かって手を合わせ、その心を合作の歌にします。

われわれも 天窓を破りて(=頭を絞って) 歌よまん

刀づくりなる 御影おがみて
文覚上人は西行を憎んでおり、頭を打ち割ってやりたいと豪語していたという言い伝えがあります。その「頭を割る」と「天窓を破りて(=頭を絞って、苦心して)」を掛けて、われわれも鉈でこの西行像をつくった文覚上人のように、像の前で頭を絞って歌を詠むことにしたという弥次さんと喜多さんでした。
春のうららの謎かけ道中

そこから春の日和にあごが外れるほどの大あくびをして、目をすりながら、喜多さんは道中で謎かけを持ち掛けます。

アァ退屈した。ナント弥次さん、道々謎を懸よう。おめえ解か

よかろう。かけやれ(=謎を掛けてくれ)

外は白壁 中はどんどん、ナァ二
※答えは行灯。原作には答えが書かれておらず、それくらい当時としては初歩的な”なぞなぞ”でした。

べら坊め(=べらんめえ)。そんな古いことより俺がかけようか。コレてめえと俺と、連れだって行とかけて、サァなんととく

ソリャア知れたこと。伊勢へ参るととく
2人連れだって行くならそりゃあ伊勢参りだと、喜多さんはこの旅の目的を答えます。

馬鹿め、これを馬二匹ととく

なぜ

どうどうだから
――俺とてめえが連れだって行くのを「馬二匹」と解く。その心は? 馬を落ち着かせる時の言葉に2人の”同道”を掛けて「どうどう」だから。
続いて喜多さんが謎かけをします。

ハハハハハ、そんならおいらふたりが国所ナァニ

神田の八丁ぼり、家主与次郎兵衛店ととくか
――2人の国処を何と解くか問われて、弥次さんは現実に旅に出るまで2人が住んでいた神田八丁堀の借家を挙げます(※実は2人の国処は静岡ですが、初編ではまだこの設定は出てきません)。
真面目に答えた弥次さんでしたが

エェ御不洒落なんな(=つまらないことを言いなさるな)。これを豚が二匹 犬子が十匹ととく

その心は

ぶた二(=ふたり)ながら きゃん十もの(=関東者)
2人の国処を「豚が二匹と子犬十匹」と解く。その心は?「ぶた二(ふたり)、きゃん十もの(関東者)」。
やや無理のある喜多さんの謎かけに、弥次さんもあきれ気味です。

おきやァがれ(=いいかげんにしろ)
ここから2人の謎かけはより長くより難解になっていき、しまいに酒を賭けた掛け合いに「ハハハハハ」と大笑いしながら街道を進むうち、いつの間にか小田原の近郊までやって来ました。
酒匂川の渡しから小田原宿へ

曽我中村や小八幡(いずれも現在は小田原市内)を通過して、<さかは川(=酒匂川)>に差し掛かったので、2人は川越人足の力を借りて川を渡ります。
川を越えた先では、早くも小田原宿(東海道九番目の宿場町)の宿引きが道に待ち受けていました。

あなたがたは、お泊でござりますか

きさま小田原か。おいらァ小清水か白子屋に、とまるつもりだ

今晩は両家とも、おとまりがござりますから、どうぞ私方へお泊下さりませ

きさまのところは綺麗か

さようでござります。このあいだ建直しました新宅でござります
ここから2人は「座敷は幾間あるか」「風呂はいくつあるか」と次々質問を繰り出して、それに宿引きが一つひとつ丁寧に答えていきます。
ところがここはお調子者の弥次さんと喜多さん、まともな質問をし続けるはずもなく、女や宗派の話へと進んでいきます。

女はいくたりある(=何人いる)

三人ござります

器量(=容姿)は

ずいぶん美しうござります

神さまはありやすか

ござります

宗旨はなんだの

浄土宗

葬礼(=葬式)はなん時だ

コウ弥次さん、おめえもとんだことを言うもんだ

ハハハハハ、ツイ口がすべった。ハハハハハハ
こうして一足早くに今晩の宿が決まり、連れだって小田原宿に向かいます。

📖本の基本情報

参考文献
●十返舎一九 作、麻生磯次 校注『東海道中膝栗毛(上)』初版1973年(岩波文庫 黄227-1)
●十返舎一九 作、平野日出雄 訳『東海道中膝栗毛【現代訳】第一部 品川~新居』1994年(十返舎一九の会制作、静岡出版発行)
関連ページ
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