【解説】『浮世風呂』とは
正式なタイトルは『諢話浮世風呂』。戯作者の式亭三馬が書いた全四編・九冊のシリーズ小説で、「男湯之巻」と「女湯之巻」で構成される。江戸時代末の1809(文化6)年から1813(文化10)年にかけて刊行されてベストセラーに。『東海道中膝栗毛』と並んで滑稽本の代表作と評されている。
【はじめに】式亭三馬『浮世風呂』
江戸の銭湯「浮世風呂」には、近隣の町人たちが入れ代わり立ち代わりやって来て、世間話をしながら湯に浸かります。男湯と女湯での男女の会話をタイムライン式に描いた滑稽小説。
前編①の主な登場人物

ぶた七
ヨイヨイという病(口舌がもつれたりする病気の俗称)を持つ30歳すぎの男。原作では通称「よいよい」。

▲(男)
鬢切りかかあ束ね(下層男性の間で流行していた髪型)の20代前半の男。朝帰りで、紅の付いた手ぬぐいを持っている。原作では名無しで、この男の場面や会話は▲の記号で表される。

●(男)
帯と下駄がトレードマークの20歳あまりの男。口の悪い3人の中で、最も口が悪い。原作では名無しで、この男の場面や会話は●の記号で表される。
本文

朝湯乃光景(あさゆのありさま)
江戸の銭湯では、「男ゆ」と「女ゆ」、もしくは「ゆ」とだけ書いた紺地の木綿布を表にかかげるが、昔は銭湯の看板として、木で弓矢の形をつくって門口(出入口)にかかげた。
これは「湯に入る」と「弓射る」を掛けた言葉遊びで、古い絵草子に描かれている。今も遠くの土地では、弓矢を銭湯の看板にしているところがまだあるらしい。

カア カア カア カア

なっと 納豆~う

カチ カチ カチ
芝居の幕開けを告げる拍子音を彷彿とさせる火打ちの音と共に銭湯にやって来たのは、三十歳を超えたくらいの男性ぶた七である。
ぶた七は着崩れした寝巻き姿で、下駄の歯が隠れるほど裾を引きずり、油を煮染めたような手拭いをだらしなく肩に掛け、手のひらに塩を乗せて、右の指で歯を磨きながら、虫が這うように戸口に近づいて来る。
ぶた七は俗にヨイヨイという病(口舌がもつれたりする病気の俗称)を持っている。

オヤ ままだ開ね、開ね、開ねか。あ、朝寝な、べやぼ(=べらぼう)だぜ
そう独り言をいいつつ戸口に立って、今度は調子外れに高い声で叫び出す。

ばば番さん(=番頭さん)、ばば番さん、起けねか 起けねか。おぉ、起けね 起けね。ケツぱた(=尻の端)焼痕すぅ程、おておてんざま(=お天道様)、おあがや(=お昇り)、おあがやひった(=お昇りなされた)。
お天道様に気を取られて、足元をおろそかにしていたぶた七は――

コ、コ、コ、コ、番たん(=番頭さん)、オヤ、オヤ、オヤオヤ、くそくそ、糞ふだ(=糞踏んだ)糞ふだ。えぇ、えぇ、汚ね
糞の主を見つけて、今度はそばに寝ている犬に向かって小言をいう。

てめか(=てめえか)てめか。悪い奴だな。糞ふだ糞ふだナァ。ここ、こちくしょ(=こん畜生)こちくしょ
ぶた七が小言をいいながら歯磨きの唾を犬に吐き掛けてよろよろしているところへ、2人の男が別方向からこちらへ向かってやって来る。
一人は額の毛を抜き上げ、鬢切りかかあ束ね(下層男性の間で流行していた髪型)の二十二、三歳の男で、口紅の付いた晒し手ぬぐいを肩に掛け、ふさ楊枝で貫いた歯磨きの袋を髷の先に挟み、股引を丸めて小脇に引き寄せ、寝起きのままやって来る。(※寝起きの手ぬぐい男=▲)
すると今度は向こうの横町より、帯と下駄ばかりが目立つ有様で、ひたいの毛をこの頃抜いたばかりに見える二十歳あまりの男が、少し首を曲げて、奥歯を楊枝で磨きながら歩いて来る。(※歯磨き中の下駄男=●)
二人が銭湯の戸口近くまで来たところで、ぶた七が「こん畜生」と犬に唾を吐いているものだから、歯磨き中の男(●)が唾を避けようとした拍子にもう一人の寝起き男(▲)にぶつかって、肩にかけた手ぬぐいが落ちてしまう。
手ぬぐいを落とした男は、ぶつかった相手を見て笑いながら――

べらぼい(=べらぼうやい)、手ぬぐいが落ィ。何をうかうかしやァがると
そう言われた相手の男は、下駄の歯をぐるりと回して手ぬぐいを拾い上げたが、その拍子に犬につまづいてしまう。

キャン

ちくしょうめ、気のきかねえ所にうしゃァがる(=居やがる)

ナニてめぇが気のきかねえくせに、ざまァ見や
下駄で人の手ぬぐいを拾うから罰が当たったとばかりに「ざまァ見や」とからかう手ぬぐい男だったが、相手の男はさらに喧嘩っ早くて――

そねむなイ(=妬むな)、この野郎。なんだまだ湯は開かねえか、朝寝なやつらだぜぇ。何時だと思う? モウ納豆売りは出直して金時を売りに来る時分だァ。
そして紅の付いた手ぬぐいに言及する。

ドレ手ぬぐいを見せや。紅を付けて、化粧をして、ヘン、いい業晒(=恥さらし)だぜぇ。あれが所からあげて(=相手の幼馴染の遊女から手ぬぐいを取りあげて)来やァがって

よせぇ、癪(=癪に障ること)を言うなぇ。男なら(芸者を)持って見や。兄が違わァ(=男の価値が違うわ)

違うはずだァ。 目鼻が無けりゃァわさびおろしという面だから、かながしらから揚銭を取りそうだァ(=魚のカナガシラ以上にひどい面だ)

こんべらばァ(=このべらぼうは)
わさびおろしのツラだの、カナガシラ以上にひどいツラだの、あまりの言われように、手ぬぐい男は相手をどぶ板の上に付き飛ばす。

アァ糞だ、どっこい
と飛びのき、その拍子にあることに気づいてしまう。

誰かもう踏んづけた跡だ

いい、今、今、おやふだ(=俺が踏んだ)
ここでヨイヨイ病のぶた七が、犬の糞を踏んだのは俺だと名乗り出る。
続く
本の基本情報
<原作>
書 名 『諢話浮世風呂』
該当箇所 前編 巻之上
著 者 式亭三馬
初版刊行年 1809(文化6)年
ジャンル 滑稽本(笑いを目的にした大衆小説)
<底本>
●『新日本古典文学大系86 浮世風呂 戯場粋言幕の外 大千世界楽屋探』1989年、岩波書店
<参考文献>
●『新日本古典文学大系86 浮世風呂 戯場粋言幕の外 大千世界楽屋探』1989年、岩波書店
●磐城まんぢう 訳『式亭三馬 諢話 浮世風呂』2023年、宝虫プロダクション
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